お早うございます。早起きディレクターです。
深夜、あるいは早朝の静寂の中、編集ソフトのタイムラインを見つめている。
モニターに映るのはα7S II(一眼レフカメラ)の望遠で捉えた立山連峰の雄姿。
そして、Osmo Pocket 3(簡易ジンバルカメラ)で舐めるように撮った富山ガラス美術館のモダンな曲線だ。
編集という作業は、実に残酷で、そして愛おしい「業」の肯定作業だと今更ながら思う。
いつも、自分の中で二人のディレクターが激しく火花を散らしている。
一人は、「躁」状態の自分。
編集用にアートリスト(フリーBGMアプリ)で選んだある重厚なストリングス音楽が耳に飛び込んできた瞬間、「これや!これしかないわ!」と血が沸き立つ。
音楽のビートに合わせて、理屈抜きでカットを叩き込んでいく。
「立山の神々しさから、一気にガラス細工の無機質な美へ繋ぐ。この飛躍、最高にオモロイやん!」 占星術的に言うならば、この時の自分は、万能感という名の「木星♃(ジュピター)」を背負っている。広がり、膨らみ、どこまでも高く飛べる気がしている。
しかし、一晩置いて見返すと、もう一人の自分が冷ややかに画面を睨んでいる。
「鬱」状態の自分、あるいは「土星♄(サターン)」という名の検閲官だ。 「このパンニング、コンマ数秒長いなあ。このカット、ただの思い入れやろ。削れ。もっとストイックに、もっと冷徹に」 昨日までの全能感はどこへやら。
1フレーム単位のノイズに怯え、不要な贅肉を削ぎ落としていく。この「引き算」の作業は、正直言って楽しくはない。けれど、この苦い精査を経て初めて、映像に「思い」と「品」という名の骨格が宿る。
「躁」で命を吹き込み、「鬱」で形を整える。
これが長年、私が実践してきた「編集の作法」だ。
けれど、ふと思う。 数年後、この動画を見返した時、私はきっと「やり直したい」と悶絶するだろう。 「なんでここで、このカットを捨てたのか」「この繋ぎは甘すぎる」。
いままでもそうだったように・・・
だが、実際にやり直してみると、不思議なことに当時の「ダイナミズム」が失われ作品の生命感がなくなってしまう。
始めて編集したあの時から少しだけ洗練された今の自分には、当時の自分が持っていた「無鉄砲な熱量」が再現できないのだ。 粗削りな「命」を、綺麗だけど無機質な「剥製」に入れ替えてしまうような喪失感。
発展(木星)と制御(土星)の使い分け。
これこそ占星術で言うところの、発展(木星)と制御(土星)の使い分けなのだろう。
しかし、言うのは簡単だが、これを極めるのは至難の業だ。
それはどんな職業でもそうであろう。
おそらく私など、あと2,3回生まれ変わっても、「完璧な正解」には辿り着けない気がする。
それでも。
VTR冒頭のハイライトシーンで、完璧な望遠映像の後に、あえて「ピンボケ」の自虐カットを置く。 その瞬間の音の消し方ひとつに、今もなお、のたうち回りながら悩んでいる。
この「ままならなさ」こそが、私がカメラを放さず、商売にもならない動画を作り続ける理由なのかもしれない。
未完成の自分を、そのままタイムラインに定着させる。 それが「TVディレクター」を経て、今を生きる私の、ささやかな「楽しみ」なのです。
でもやっぱり自分はよくよく「業」が深いよなあ、などと思う。
今日は朝からちょいと真面目モードなおじさんでした。




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