お早うございます。早起きディレクターです。
突然ですが、ご同輩の皆様は人生のどれくらいを諦めてますか?
突然ですが、ご同輩の皆様は人生のどれくらいを諦めてますか?
なんだかいきなり暗い話題で恐縮ですが、実際ぼくは今年65歳になって、さすがに体力気力がこれまでの自分より劣っていることに(嫌でも)気づくようになってきました。
実は50歳から日記をつけているのですが、そんな15年間にわたる長い記録を読み返していて、最近ふと気づいたのです。
それは「最近かなり”諦観”の気持ちが強くなってきているな」ということ。
歳を重ねるうちにいつのまにかいろんなことに諦めているんです。
やれやれ。
もちろん「夢」を全部捨て去っているわけではありません。
まだまだ小さいながらも希望や欲望はいくつもあります。
でも、視力が1,2の僕でも、さすがに字の小さい文庫本を風呂場などの暗い場所で読むのはだんだん億劫になっていますし、5年ほど前までは1日ちゃんと3回食事していたのが、いまや2食が当たり前。しかも食べる量も昔に比べてだいぶ減っています。
第一、体力や持久力が急激に落ちています。
最近は暑い昼下がりに、動画カメラを持って撮影するだけでも、30分くらい歩いただけで息もあがってしまい命の危険を感じます。
たぶん歳を取れば何かを諦めることは「自然の理」なんでしょう。
でも、「諦観を嘆くのではなく、あえて何かを手放すことでまた別のなにかと出会えるかもしれない」
過去の日記を読み返すうちにそんな気持ちが芽生えるようにもなりました。
あなたは人生の何割を諦めていますか?
ちなみにわが父親は現在90歳です。
体は年齢の割にはまだまだ達者ですが、若い頃にくらべればやはり動作も口数もかなりゆっくりになり、性格もかなり穏やかになったようです。
そりゃあ若い頃の父はかなり気象が激しいかなり扱いにくい人でした。
でも、85歳を超え、母がいなくなった頃から父はひとり部屋の丸椅子に座り、ほとんど何も喋らずにじっと何か思いにふけるようになりました。
ときおり瞳に映る静かな影は若い頃とは全く別人のように感じられました。
まるで「世の中には口に出しても詮無いことばかりだ。」
と悟ったひとのようです。
最初、その様子は息子としてはとてもさみしいことでしたが、でもよくよく考えればそれは「父はもう人生のある程度を失ったことを認めている」と最近は考えるようになりました。
それはある意味、人間にとっては潔いことではないのか。
きっと人間はある一定年齢を超えた時から、歳を重ねるほどに何かを諦めなければならないのかもしれません。
もちろん若い10歳、15歳くらいのうちはまだまだ100%に近い可能性は残っているけれど、それが40歳50歳くらいになれば人生の4割、5割は何かを諦めなければならなくなる。
父は90歳になって、人生で出来る9割を失ったことでそんな新しい境地に達したのかもしれない。
それは「諦観」であり、ある種の「希望」なのかもしれない。
だとすれば、僕はもう65歳ですから人生の65パーセントは何かを捨てなければならない。
でもそれは決して悲しくて辛いだけのことではない。
そんなことを日記を読み書きしながらつらつらと考えることが増えました。
追伸
今日は神戸まつりに行ってきます。
ふとしたきっかけで、サンバチームの打楽器を担当することになったんです。
もともとお祭りは苦手な性分ですが、まあ、これもなにかの御縁、よすが、えにし。
新しい希望が生まれればいいなあ。
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