お早うございます。早起きディレクターです。
皆さんは、自分が住んでい街の風景をどれくらいご存知でしょうか?
35年間テレビマンとして全国を歩いてきた私にも、「灯台下暗し」の驚きが待っていました。
遠くへ行かなくとも、日々の散歩道のすぐ傍らに凄まじい「日本の原点」が転がっているのです。
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大阪人がほとんど知らない、最強の聖地「枚岡神社」
今回、愛用のカメラ(SONY α7SⅢ)を首から下げて向かったのは、東大阪市にある枚岡神社でした。
近鉄奈良線の枚岡駅の改札を出ると、もうそこが境内の入り口になっています。
大阪のよくあるベッドタウンの風景の中に、そこだけぽっかりと深い緑が割り込んでいるような、不思議な場所です。
すぐ北には石切神社があり、山を越えれば妻の実家があります。
私にとってはそれくらい、ただの「よく知っている、身近な地元の氏神さん」でしかありませんでした。
大阪に長年住んでいながら、私はこの場所の本当の凄さを、今日まで何ひとつ知らなかったのです。これだけ全国の歴史を撮ってきたのに、一体どこを見ていたのだろうと、自分の節穴のような目を本気で反省したくなります。
一歩足を踏み入れ、宮司さんのお話を伺いながら歴史の紐を解いていくと、ファインダーのピントが急激に合うように、めまいがするほどの事実が次々と飛び出してきました。
この神社の創建は、なんと日本の初代天皇である神武天皇が即位される「3年前」にまで遡るのです。知ってました?
西暦に直せば、今から2600年以上も前。
日本という国の輪郭すらまだ曖昧だった神話の時代から、この生駒山の麓にずっと佇み、人々の祈りを見つめ続けてきたことになります。その圧倒的な時間の長さを思ったとき、背筋がすっと伸びるような感覚がしました。
あの奈良の有名な春日大社の最強の神様が、実はここから奈良の都へと引っ越していかれたという話も、胸を熱くさせます。
だからこそ、ここは「元春日」と呼ばれている。
そんなあまりにも深い歴史の絆を、私はこの歳になるまで、本当に何も知らずに通り過ぎていたのです。
出雲と伊勢の2大聖地を一直線に結ぶ「太陽の通り道」
さらにテレビ屋の直感を激しく刺激したのが、その立地です。
この枚岡神社は、日本の精神性の東西の横綱である「出雲大社」と「伊勢神宮」の太陽の動きを真っ直ぐ一本の直線で結ぶ、「太陽の通り道(レイライン)」のド真ん中にピタッと位置しています。
境内の奥にある「出雲井(いずもい)」という場所から湧き出る神秘の水に触れた瞬間、ピリピリとした強大な神気に肌が震え、「なぜ大阪のここに出雲の地名があるのか?」という古代のロマンに、妄想が止まらなくなってしまいました。
そんな、身近な足元に眠っていた凄まじい建国のドラマを、こだわりの4K映像美と、現地の風の音や鈴の響きを大切にした音響演出で、極上の旅ドキュメンタリー動画にまとめました。
ぜひ、画面を通してあの特別な空気感を五感で浴びてみてくださいませませ。
👇 【4K動画】大阪・枚岡神社|出雲と伊勢が重なる奇跡の聖域!元春日に宿る古代の祈り
「笑顔」で自分の心の岩戸を開く、独特の作法
この枚岡神社には、テレビのバラエティ演出のプロとしても唸らされる、実におもしろい独自の作法が残されています。
それが、12月の冬至の頃に行われる「お笑い神事」です。
天の岩戸に隠れてしまった天照大御神を、神々が「ワハハ!」と大爆笑することで引っ張り出したという日本神話の原点に倣い、なんと境内を埋め尽くした参拝客全員で「20分間、ただひたすら大笑いし続ける」という、世界に類を見ないパワフルな神事が行われているのです。
本殿の前に立った時、私も「目の病気(緑内障)」や日々の人間関係のわずらわしさ、伸び悩みの焦りといった、心の中に溜まった雑念(心の岩戸)を一度すべて手放し、心の中で思いっきり「微笑む」イメージを描いて参拝しました。
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| 筆者。良い光だったので思わずスナップ |
不思議なもので、プロ仕様の立派なしめ縄をくぐり、神の使いである「ブロンズの鹿」の表情を眺めているだけで、スーッと心がクレンジングされ、明日への活力が内側から湧き出てくるのを感じました。
🏁 結論:いくつになっても、身近な世界は「興味津々」の宝箱
35年間、テレビのディレクターとして日本中を飛び回り、数々の刺激的な絵をカメラに収めてきました。
どこか遠くの、誰も知らない場所にこそ、価値のある「何か」が眠っていると思った時期もありました。
けれど、テレビ業界を離れ、人生の後半戦を迎えた私は、大阪の自宅のすぐ近くにある枚岡神社の森の中に、今、立っています。
実は、私の右目は緑内障を患っている。もうすぐ4回目の手術を控えていて、正直にいえば、少しだけ怖い。視界が狭くなっていく恐怖や、思い通りにいかない年齢の重ね方に、ふと心が押しつぶされそうになる夜もあります。
だからこそ、本殿の奥で、古代から湧き出ているという神秘の水にそっと指先を触れさせたとき、肌が粟立つような感覚がしました。冷たい水が、私の焦りや不安を静かに洗い流していくようでした。
若い頃の私は、常に何かに追われ、自分の足元にある景色や、体の微かなサインに耳を傾ける余裕すらありませんでした。
それが今、視界が狭くなった代わりに、目の前にある1本の木、石碑の傷、妻の歩く後ろ姿といった、すぐ隣にある「キラキラしたもの」を、驚くほど繊細に覗き込めるようになっています。
年を取るということは、何かを諦めることでも、好奇心を失うことでもないのかもしれません。でも、忙しさの中で見落としていた足元の宝物を、もう一度新しく発見していくための、静かで贅沢な時間なのだと、この神社の森が教えてくれた気がします。
不自由さを抱えた、ちょっと不格好な私の「いま」の視点。それを13分間の動画という形に、今の私ができる本気のモノづくりとして詰め込んでみました。
もしよければ、ヘッドホンをつけて、五感を開くようにして一緒に動画をみながら散歩をしてみてほしい。画面の向こうのあなたにも、あの森に満ちていた静かな光が届くことを願っています。





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